このような試みは、子ども中心主義教育の本家と言われるアメリカやイギリス(これらの国の教育は地方分権による)にも例を見ない、壮大な実験である。
しかも、その実現可能性には目が向けられない。
格差問題も取り上げられない。
公立の小中学校だけで65万人もいる教師たちに、「自ら学び、自ら考える力」の教育を一斉に行わせようとする根拠は、その実現可能性や、引き起こすであろう「犠牲」と引き比べた時に、あまりに脆弱な印象素朴にすぎる「新しい学力観」による改革は、「自ら考える力」の教育を大衆的な規模で実現させようとした壮大な実験である。
この変化は、新たな段階へと進んだ、大衆教育社会の深化を示している。
この問題を突き詰めていくと、多くの人びとにとって基礎となり、平等に提供すべき「基礎教育」と、より高度な内容を伴った「エリート教育」との対立の図式が浮かんでくる。
この対立軸を明確に示して論じることをタブー視してきたところに、大衆教育社会の特徴かある。
それゆえ、問題を明示しないまま、実態としての「新しい学力」の階層差が生まれるという、前著で指摘したことと同じ問題が、さらに輪をかけて隠蔽される形で生じてしまうのである。
何か論じられないのかを引っ張り出して、議論の俎上に載せることでしか、公論は始まらない。
いい、悪い判断は別として、こうした論点を取り出すことが、教育の論じ方を不毛にしないために必要である。
大衆教育社会の圧力なのだ。
これでは社会の選択肢か人びとに明確に示されることはない。
この新段階の大衆教育社会では、「自ら考える力」だけにとどまらず、「自己実現」も「個性」も、大衆的な規模での実現がめざされている。
しかも、そこで生じる自己実現や個性の発揮のチャンスに格差が生じる可能性や、そうした格差が新たな問題を生み出す可能性には目が向かない。
その点でも、私が明らかにした前段階の大衆教育社会と同様である。
自己実現を例に論じてみょう。
そもそも、「自己実現への欲求」という考え方を示したA.H.Mズローは、言わば人生の達人たちの観察から、自己実現について考えるに至った、と言われる。
Mズロー自身の言葉を引けば、「自己実現は、ごくわずかの人にとって、比較的達成された『事態』である」。
したがって、そう簡単に到達できるものでも、誰にでも手の届くところにあるものでもなかったのである。
もともとは、至高の価値と言える段階に設定されていた概念である。
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